かろやかに読んでみよう『精神病理の形而上学』[2018.04.30]

かろやかに読んでみよう『精神病理の形而上学』

山 岸 洋[北野病院精神科]yamagishi-s

 総合病院の精神科で仕事をしていると、精神科医のやっている仕事が他の職種や他の部署の人たちにどれだけ理解されているのか心配になることがある。精神科医の仕事がわかりにくいということは、病院につとめる多くの人たちの暗黙の前提となっていて、そのことを精神科医のいる場所で話題にすることさえはばかられているのではないかと私の方から忖度してみることさえある。
 精神科医の行動で特にわかりにくいのは、一般に軽症の病気とみられている患者への対応かもしれない。どこまで医学的にきまりきった(マニュアル通りの)対応が可能なのかという境界が、まずあいまいである。それぞれの精神科医によって、どの範囲の相手(患者)までを治療対象とするかということも大きく異なる。そして何より、客観的な医学的検査で疾患が証明されたり否定されたりすることがないということが、すべてのわかりにくさの根源なのかもしれないと思う。
 解離性同一性障害の30歳代の女性が万引きした事件で、裁判所が刑事責任能力を「限定的」とする判決を言い渡したという(YOMIURI ONLINE 2018/4/21)。弁護側は「女性とは別人格のYの犯行で、女性には記憶がない」などと無罪を主張していたという。私たちの世代の精神科医にとっては、かなり衝撃的なニュースだと言えるだろう。
 神経症という概念はいまや風前のともしびのような状態にあるが、神経症というカテゴリーが消滅すれば、この裁判のようなことが起きてくることはなかば必然だった。以前は、精神病(特に統合失調症)の患者について責任能力が問題にされることはあっても、神経症による状態での行為については責任能力が問題にされることは決してないというのがあたりまえのことだった。だが、いまや精神病と神経症の二分法は消滅し、精神障害の人の犯罪についての責任の問題は、障害のカテゴリーに束縛されることなく個々に検討されるということになってきている。
 精神医学は、このような社会との関わりにおいても、どんどんわかりにくくなっているのかもしれない。
 了解とか内因性とか統合失調症とか、私たち精神科医が使ってきた最も基本的な概念でさえ数年、数十年後には全く顧みられなくなっているという可能性がある。いま挙げた三つのうちすでに二つは精神医学の教科書からほとんど消えかかっている。はたして半世紀後の未来に精神科という医療分野がいまと同じような形で存続しているだろうか...
 そんなことを言って若い医者の卵たちの間に精神医学の未来に不安をかきたててはいけない、と私の同僚たちは言うに違いない。精神科医療はようやく身体的な医療と同様の扱いを受けるようになったところではないか、これからが私たち精神科の時代なんだ、と主張する人がいることも私は認めなければならない。ただ、そういう主張をきいて素直に、じゃあ安心していいんだね,というところに落ち着くかと言えば、やはりそうではない。

 今の時代ほど、精神医学を根本から再検討するのにふさわしいときはないのかもしれない。これまで精神医学を支えてきた基盤を復活させねばならないという動きもたぶん出てくるだろうが、それで十分だろうとは私にはまったく思えない。精神医学という学問はおそらくもっと根本的に新しい別のパラダイムを求めているのである。

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 あたりまえのことだが、精神医学が扱っている現象は人間の心で起きている事象、つまり精神現象である。それは、身体領域の現象、つまり物理的な世界で生じている現象とは次元の異なるできごとである。精神医学では、この実に簡単であたりまえのことが、まるで盲点に入ってしまったかのように、ながいこと見落とされてきたのではないだろうか。
 世界保健機関のつくるICD(国際疾病分類)などからも分かるように、精神科領域の疾患(あるいは障害)の分類は、身体疾患の分類表と形式的に何も異なるところがない(かの)ように作られている。
 このことは、精神障害が身体障害と同様に「治療」や「社会的援助」を必要とするハンディキャップであるということを一般の人々に理解してもらうために必要なことだった。呉秀三が「わが国の精神病者」の悲惨について述べたあの時代とはいまやまったく異なる(もちろんよい意味で)状況があるとはいえ、精神障害や精神医学に対する偏見は今も根強く残っている。だから、精神の障害は身体の障害と同じく医療や福祉の対象だと見なされる必要があったし、そのために必要な形(たとえば障害の分類表)を整えることも必要だったのだ。
 しかし、精神医学は精神医学の対象である異常な(偏った)精神現象をことごとく「病気」「疾患」(の結果)に還元しようとする点でこれまで行き過ぎた態度をとってきた。そのことが、最新の(国際的にもきわめて強い影響力をもつ)診断マニュアル=DSMの改訂の中でも次第に問題にされるようになっている。
 代表的な例としては、「性同一性障害」の領域がある。また『精神病理の形而上学』でも詳しく議論されている「死別反応」の問題もある。
 そもそも個々に分類される精神障害がすべて「自然種」と同じように扱われていることにもっと疑いの目を向けるべきだった。いまさら心理学者に指摘されてそのことに気づくとしたら精神医学はこれまでいったい何を考えてきたのか、ということにならないだろうか。
 自然がつくりだすものと人間がつくりだすものとを分けたときに、精神障害がどちらに属するのかという問題は置き去りにされてきた。精神障害を身体の障害と同様に取り扱うべきだという社会的要請があまりに強かったために、この問題についての検討は忌避されたのである。本来、ピネルとカントの間で激論が交わされても不思議ではなかった。カントは精神の異常についての判定を(とりわけ責任能力の鑑定を)できるのは、「医師」ではなく(「神学者」でもなく)、「哲学者」(当時の大学の学科区分では心理学者を含む)であると主張していたのである。私は精神科医ではあるが、少しカントの方に味方してみたい感じもしている。

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 精神障害の分類は、本当に動物や植物や岩石の分類と同じようになされなければならないのだろうか。私たちはいろいろなものを分類するが、精神障害の分類のモデルを提供してくれるものはこの世界にないのだろうか。
 そう思って見回してみると、実はとてもよいものがある。それは、偶然ではあるが私が今ここで紹介しようとしているものである。それは、あなたの周りに、家から外へ出ていくまでもなく、部屋の中のすぐそこにあるものである。
 私たちの身の回りにあるこの本(書籍)というものは、いったいどうやって分類されているのか。少し調べてみた。その分類には標準的な方法が取り決められている。たとえば「日本十進分類法(NDC)」というものがある。これは公共の図書館で本を分類して配架するのに使われている。また出版社の側で本を分類する際には、「日本図書コード」による分類記号が使われることになっている。本の裏表紙の二つのバーコードの中で、二つ目の方の数字列の6・7番目の数字がその本の分類(病気で言えば診断名だが)を示しているということらしい。

 本の本質は、そこに書かれている内容にあることは誰でもわかる。その本の作者がつくりだした内容によって本が分類されるのはあたりまえのことである。つまり、そこで分けられているものは、人間の精神がつくりだしたあるもの(人工物)である。人間がまったく関与しなくても世界に存在するもの(自然物)ではない。
 そうした人工物の分類は、自然物の分類と何が異なるのだろうか。
 自然物は、それを対象とする学問によって、通常、自然種としてのカテゴリーに分けられる。「野菜の名前を思いつくままに言ってください」と言われて診察室でおばあちゃんが挙げるようなものも、自然種だということになっている。キャベツとニンジンは、誰が見ても異なるものである。

 では本の分類はどうだろう。今私の前にあるこの本は詩集や小説ではないということは誰にでもわかるだろうが、哲学の本か、心理学の本か、医学の本か、という判定についてはかなり迷うかもしれない。しかしだからといって操作的な診断基準をつくろうなどとは誰も考えないだろう。権利上、考えてはいけないということはない。だが事実として、たぶん誰も考えないのである。
 これはなぜか。そこまで厳密に分けることの意味が乏しい、というのがプラグマティックな水準での理由だろう。そこまで分けなくても、本屋さんはこの本をこの本の最もふさわしい場所に並べてくれるだろうな、と。だが、もう少し分析的に考えてもよいかもしれない。哲学書とか、医学書といったカテゴリーは、人間と関係なく世界に存在するカテゴリーなどではなく、そのカテゴリー自体がすでに人間の精神がつくりだしたものである。人為的なカテゴリーだということは誰にもわかるし、本に関して「ただ一つの真なる」分類法を求めるような人もおそらくいない。

 人間の精神がつくりだしたもの(本)を人間の精神がつくりだしたもの(本の分類法)に従って分けているという作業は、自然物を自然な境界に沿って分けていくという作業(これも最後のところは人間が行うのだが)とはまるで違うものであってもよいのではないか。野菜は正しく分類されることで、食材として使えるようになるが、本は正しく分類されたからといって、正しい読み方が指示されるわけではない。

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 こんなことを考えているうちに、私たちはいつのまにか、形而上学というような領域に迷い込んでいるのかもしれない。こんな(意図しなかったところにある)形而上学こそ、この時代の精神医学が最も必要としているものなのではないか。

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