精神医学の科学的基盤/POWERMOOK 《精神医学の基盤》[4](加藤忠史 編)

POWERMOOK  《精神医学の基盤》[4]
精神医学の科学的基盤 総合テーマ 精神医学における科学的基盤 No1
9784906502530

責任編集=加藤忠史
[B5判 192頁 4500円+税 ISBN9784906502530]
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抄録はこちらからご覧いただけます。

★ 編者によれば、精神医学の科学的基盤としては、分子生物学、ゲノム科学、神経科学といった自然科学、哲学、心理学などの人文社会科学、そして情報科学など、幅広い領域が考えられる。脳が作り出した人間の心と社会に対する人文社会科学的な興味を、脳という物質を対象として自然科学手法で解くのが脳科学であるが、精神疾患の解明にも、脳という物質の変調を自然科学の手法で解こうとするアプローチと、人文社会科学的な手法で解き明かそうとするアプローチの両方が行われてきた。本書は自然科学に属すると思われる研究、人文社会科学的な領域に属すると思われる現象の予測や操作に関する研究を、精神医学における科学的基盤という立場から集成した画期的なコレクションである。
★ 「一人の患者を前にした臨床医の判断は,精神疾患を抱える患者の心理的理解,生活環境,社会状況の理解とあわせて,総合的な理解へ導かれる必要がある。それは生物医学の研究が大きな進歩を見せても変わることはない。無数の因子(性格,知能,発達,教育,養育環境,現在の家庭環境,交友関係,職場環境,経済状態やソーシャル・キャピタルなど)の,動的で複雑に作用し合う要因が,患者の回復や生きがいに及ぼす影響が大きいからである。心の事象をすべてサイエンスが説明できるという還元主義は拒否するが,「主知主義」から反「主知主義」へと私たちの意識の転回が必要な訳ではない。必要なのは,精神疾患を抱える人たちの不自由からの解放であり,それを目指すサイエンスの終わりのない挑戦である。」(神庭重信,本書Final Remardより)

目 次

発刊にあたって  (山脇成人)

 精神医学の科学的基盤に関する総論
精神医学の未来―特集:精神医学の科学的基盤について (加藤忠史)
精神医学におけるM科学とP科学― 歴史から行く末を占う (榊原英輔)
[自由討論]サイエンスとしての精神医学を考える (山脇成人/神庭重信/加藤忠史/大森哲郎/古川壽亮)

 分子細胞生物学からみた精神医学の基盤
ゲノムと精神医学:精神疾患のゲノム基盤と遺伝環境相互作用解明はどのようにして精神医学にイノベーションをもたらすか (久島周,尾崎紀夫)
創薬科学と精神医学ー創薬科学は精神疾患の画期的な治療薬を生み出すことができるか (松本光之)
神経生物学と精神医学 ー 精神疾患を神経細胞のレベルでとらえることは可能なのか (久保健一郎)

 精神疾患に迫る先端技術
精神疾患に迫る先端技術ー次々と開発される神経科学の先端技術は精神医学を変えるのか (福田正裕/西山潤)
神経病理学と精神医学ー百年前、墓場と言われた神経病理学が今精神医学のフロンティアになろうとしている (河上緒)

 システム神経科学からみた精神医学の基盤
精神療法の脳科学的基盤―脳科学は、精神療法のメカニズムにも迫ろうとしている (横山仁史,岡本泰昌)
計算神経科学と精神医学ー情報の観点から精神疾患を見る (宗田卓史,国里愛彦,片平健太郎,沖村宰,山下祐一)
神経生理学と精神医学:脳波、誘発電位、そしてγ振動と、精神疾患の原因に迫りつつある生理学の現状 (平野昭吾,平川則明,平野羊嗣,鬼塚俊明)
意識(主観的体験)の科学は何を明らかにして、どこに向かおうとしているのか;ニューロイメージングや神経生理学的手法の限界を越えるアプローチを目指して (高畑圭輔)

 人文・社会的視点からみた精神医学の基盤
精神疾患に本質はあるのか ―精神医学はいかなる実践のために疾患を分類するのか (植野仙経,村井俊哉)
発達心理学と精神医学 ―乳幼児の精神発達理論と最近の神経科学の進歩は精神医学を変えるのか (神尾陽子)

 心理学と精神医学
今後の精神医学において心理学や精神分析が果たす役割は何か (池田暁史)
エビデンスの政治学 ― 科学の知と当事者の知の架橋に向けて (狩野祐人,北中淳子)
A Final Remark サイエンスに精神疾患の治癒を求めて (神庭重信)
あとがき (加藤忠史)

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収録論文の抄録………………

精神医学におけるM科学とP科学 歴史から行く末を占う(榊原英輔)
抄録:精神医学の科学的基盤を論じるにあたっては,そもそも「科学」というときに論者がどのようなものを想定しているかを明確化しておくこと,とりわけ現象のミクロ的本質の解明を目指すMechanisticな科学(M科学)と,現象の予測や制御を目指すPragmaticな科学(P科学)を区別することが重要である。精神医学には,19世紀後半から20世紀初頭にかけてと,20世紀終盤から現在に至る二度のM科学ブームが生じたが,主要な精神疾患のメカニズム解明には至らなかった。その代わりに成果として残ったのは,統合失調症と双極性障害の区別や,操作的診断基準を用いた臨床疫学的研究の蓄積という,P科学の発展であった。P科学とM科学では,因果的説明の方法が大きく異なる。P科学における因果的説明とは,ある事象が生起する条件付確率を高めるような別の先行事象を指摘することであり,原因と結果が同じレベルの事象であることを要しない。これに対しM科学における因果的説明とはメカニズムの説明であり,研究対象となる現象を,それを構成する諸部分に分割し,諸部分の間の因果連鎖として記述していくことである。精神医学のM科学が苦戦しているのは,心身問題という哲学の難問に正面から取り組まなければならないからである。それゆえ,将来M科学の第三,第四のブームが生じたとしても,私たちは冷静な態度を取るべきである。(キーワード:メカニズム,Kraepelin, 操作的診断基準,因果的説明,心身問題)

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ゲノムと精神医学:精神疾患のゲノム基盤と遺伝―環境相互作用の解明はどのようにして精神医学にイノベーションをもたらすか(久島周,尾崎紀夫)
抄録: 精神疾患の病態解明が難しい主な要因として,1)診断が精神症状のみに基づくため病因・病態の異質性が高いこと,2)病態の主たる臓器であるヒト脳組織を解析することに伴う困難,3)モデル動物の妥当性の問題,が挙げられる。一方,近年のゲノム解析技術の進展と解析サンプル数の大規模化を背景に,精神疾患の遺伝要因の解明が進んでいる。具体的には,統合失調症,自閉スペクトラム症の発症に強い影響を与えるゲノム変異が多数同定され,遺伝的な異質性が明確化された。ゲノム変異をもつ患者の表現型を詳しく調べることで,個々の変異が疾患横断的に発症に関与することも明らかになってきた。発症関連変異に基づいたモデル生物(モデルマウスや患者由来の人工多能性幹細胞)が樹立され,モデルとしての妥当性が検証されつつある。今後はこういったモデル生物が,病態解明や創薬のツールとして広く利用されるだろう。これらの研究は,最終的に,病因・病態の理解に基づいた精神疾患の診断法,治療法,予防法の開発に繋がることが期待されている。(キーワード:精神疾患,ゲノム解析,iPS細胞,モデル動物)

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創薬科学と精神医学:創薬科学は精神疾患の画期的な治療薬を生み出すことができるか?(松本光之)
抄録:これまで統合失調症を対象としてドーパミンD2受容体阻害薬とは異なる作用機序を持った多くの治験薬が試されてきたが承認までは至っていない。これからは病態生理に基いて一定の病態を持った患者群をバイオマーカーで選定し,その病態を標的とした新たな創薬研究を目指す必要がある。近年目覚ましく発展した遺伝学解析により全ゲノム配列解析やメタ相関解析などが可能となり,精神疾患患者に特有の遺伝子変異や遺伝子多型が同定されてきている。それらの情報から精神疾患で障害が起きていると考えられる生物学的パスウェイが示唆され,創薬標的となる分子が見出されてきている。一方,統合失調症の遺伝子変異や遺伝子多型の多様性から統合失調症が生物学的にヘテロな集団から成り立っている可能性が強く示唆され,病態や障害されているパスウェイに基いた患者選択が治験段階で必要になると考えられる。最近の脳イメージングや脳波(EEG/ERPs)などのバイオマーカー研究によりDSM-5/ICD-11での診断病名とは異なった形で生物学的に分類できるグループ(Biotype)が形成される可能性や病因論的には抗NMDA受容体抗体脳炎及び精神症状を引き起こすNMDA受容体に対する自己抗体に代表されるような神経系の細胞に発現している蛋白に対する自己抗体が精神疾患を引き起こし一部の患者群を形成している可能性も示唆されている。遺伝学,病態生理学,バイオマーカー情報を統合して活用することにより近年大成功を収めている癌の研究開発における「Precision Medicine」と同様のコンセプトで精神疾患に苦しむ患者さんに真に革新的な治療薬を届けることができると私は確信している。(キーワード:統合失調症,遺伝学,病態生理,病因論,患者層別化)

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神経生物学と精神医学:精神疾患を神経細胞のレベルでとらえることは可能なのか (久保健一郎)
抄録:
精神疾患を神経細胞のレベルでとらえるために,まず重要になるのは,どの細胞に注目するかであろう。しかし,精神疾患をとらえるために鍵となる細胞がどれなのか,まだ完全には解き明かされておらず,その候補が複数挙げられているのが現状であると考えられる。本稿では,精神疾患をとらえる上で鍵となる細胞の候補ではあるが,その生理的性質と病態における役割の解明が待たれる一例として,白質神経細胞に触れる。ヒトをはじめとする霊長類の脳の白質には,齧歯類の白質には痕跡的にしか存在しない,白質神経細胞が存在する。この白質神経細胞の分布の変化,特にその密度の増加が,統合失調症や自閉スペクトラム症に罹患した患者の脳において,疾患横断的に報告されている。しかし,現在のところ,どのようにして白質神経細胞が増加するのか,その要因については不明であり,白質神経細胞の生理的な役割についての理解も不十分である。一方で,近年のヒトや霊長類の脳についての解析技術の進歩は著しい。近い将来,少なくとも一部の精神疾患については,神経細胞のレベルでとらえることができる日が来るのではないだろうか。(キーワード:統合失調症,自閉スペクトラム症,大脳新皮質,白質神経細胞,神経細胞移動)

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精神疾患に迫る先端技術:次々と開発される神経科学の先端技術は精神医学を変えるのか(福田正裕,西山潤)
抄録:統合失調症をはじめとする精神疾患がなぜ生じるのか,未だにその病態は殆どわかっていない。ヒトの脳では約1,000億個の神経細胞が100兆個を超えるシナプスを介して複雑な神経回路網を形成しており,あらゆる脳機能の基盤となっている。統合失調症や自閉症に関連する遺伝子として多数のシナプス関連分子が同定されており,シナプスの異常が多くの精神疾患の共通の病態とも推定されている。しかし,シナプスがどのように脳機能を制御し,どのように精神疾患と関連するのかといった問題に取り組むことは,個々のシナプスが極めて微小かつ動的な構造であるため,様々な技術的な困難が存在する。一方,最近の光学,ゲノム科学,幹細胞生物学などの爆発的な進歩に基づき,革新的な技術が次々と開発されており,従来アプローチ不可能であった様々な神経科学の問題に挑戦することが可能となっている。現在では,新たな候補遺伝子の発見と解析が格段に高速化され,シナプスのような微細構造の形態のみならずその内部の分子動態に至るまでの観察と操作が実現し,さらには精神疾患の患者由来の細胞から疾患モデルとなる細胞や組織を人工的に作成することまで可能となっている。本稿では,めざましい発展を遂げている神経科学の膨大な先端技術の一部を紹介し,今後の精神疾患研究の方向性について若干の考察を加えた。(キーワード;シナプス,イメージング,動物モデル,精神疾患)

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神経病理学と精神医学:百年前,墓場と言われた神経病理学が今精神医学のフロンティアになろうとしている (河上緒)
抄録:E. Kraepelinが様々な精神疾患の診断分類体系を確立した19世紀以降,精神疾患の病態解明を目指して神経病理研究は熱心に行われた。しかし,古典的な病理評価では,精神疾患における疾患特異的な知見は明らかにされず,精神疾患における神経病理研究は「神経病理学者にとって統合失調症は墓場である」と称されるほど,一時衰退した。近年,遺伝子研究の進歩によって同定された個々の変異例における脳組織検証の必要性が増し,加えて,神経画像技術の進歩により,最終段階としての脳病理像の評価が重要になっている。神経病理学研究においても免疫組織化学染色等の技術革新によって,ドーパミンやセロトニンの投射経路におけるモデル動物を用いた検討が進み,iPS細胞などの培養細胞を利用した研究も始まっている。精神疾患における疾患特異的な病理所見は未だ見出されていないが,様々な科学的手法を融合し,新しい観点から神経病理学的研究を展開していくことで病態に迫ることができると考える。(キーワード:神経病理学,脳組織,病態解明,免疫組織化学, ブレインバンク)

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精神療法の脳科学的基盤:脳科学は,精神療法のメカニズムにも迫ろうとしている(横山仁史,岡本泰昌)
抄録:今日,様々な精神療法が精神医療の中で用いられているが,より良い治療提供のためには精神療法がもたらす作用を脳のレベルで理解していくことが重要な課題である。近年発展の著しい脳画像解析手法は,精神療法の作用メカニズムを理解するための有用なツールとなり得るものであり,2000年代以降から精神療法の背後にある心理学的構成概念に関する脳科学的基盤を明らかにしてきた。また,精神療法の中でも認知行動療法(CBT)に関する研究が盛んに行われ,CBTがどのようにして,なぜ,変化をもたらすのかといった作用についてのエビデンスが急速に蓄積されている。そこで本稿では,主に認知行動療法に関する脳科学研究について概観し,それぞれの治療技法に関する脳科学的視点からの作用メカニズムの理解について考察した。脳科学は精神療法のメカニズムを目に見える形で実証していくに留まらず,脳科学的メカニズムを治療対象とした神経行動療法への発展を促す可能性を有しており,今後のさらなる発展が期待される。(キーワード:認知行動療法,精神療法,脳,メカニズム,脳画像研究,機能的核磁気共鳴画像)

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計算神経科学と精神医学:情報の観点から精神疾患を見る(宗田卓史,国里愛彦,片平健太郎,沖村 宰,山下祐一)
抄録:生体内部で行われる情報処理を,何らかの演算過程と捉え,数理的なモデルとして表現することで理解しようとする研究手法を計算論的アプローチという。計算論的精神医学とは,計算論的アプローチを精神医学領域に積極的に応用しようという新しい研究領域であり,近年,その重要性の認識が非常に高まっている。計算論的アプローチは,神経活動,認知・行動,抽象的な計算プロセスといった異なる水準間を中継するような説明を提供するモデルを構築することを目指すため,精神医学が直面する問題を解決する上で極めて強力な研究方略を提供することが期待されている。本稿ではまず,計算論的精神医学において重要な概念となる生成モデルについて説明する。次に,計算論的精神医学における研究方略として,仮説検証を主な目的とした計算論的表現型同定と,新たな仮説の提案に主眼を置いた仮説形成的アプローチを解説し,それぞれの実際の研究例を紹介する。最後に,計算論的精神医学における仮説の洗練プロセスを検討した上で,計算論的精神医学の発展の方向性について述べる。(キーワード:計算論的精神医学,生成モデル,仮説形成的アプローチ,計算論的表現型同定)

神経生理学と精神医学:脳波,誘発電位,そしてγ振動と,精神疾患の原因に迫りつつある生理学の現状 (平野昭吾,平河則明,平野羊嗣,鬼塚俊明)
抄録:脳波は,その歴史は古いが,神経活動由来の動的な電気活動をミリ秒単位で測定することが可能であり,意識障害,てんかん,睡眠などの臨床においては欠かすことのできない臨床検査として現在でも非常に重要な意義を有している。精神医学研究においても,脳機能を比較的手軽に測定できるツールとして脳波は利用され,数多くの重要な知見をもたらしてきた。本稿では,精神医学における神経生理学的研究の現状を述べる目的として,脳波の応用として測定される,誘発電位や事象関連電位,さらにはγ(ガンマ)振動を含むニューラルオシレーションを指標としてこれまでに得られた重要な知見を概説する。脳波の生成機構はまだ多くの謎に包まれているが,コンピュータの進歩に伴う測定および解析技術の発展により急速に数多くの知見が得られつつある。新しい知見が精神医学研究に応用されることで,ブレイクスルーが起きることが期待される。(キーワード:脳波,誘発電位,事象関連電位,γ振動,ニューラルオシレーション)

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意識(主観的体験)の科学は何を明らかにして,どこに向かおうとしているのか:ニューロイメージングや神経生理学的手法の限界を越えるアプローチを目指して(高畑圭輔)
抄録: 意識(主観的体験)は当人にのみ覚知可能な心的現象であり,その特異な性質から宗教や哲学的論争の対象であり続け,特に近代では現象学によってその構造の検討がなされた。1990年代以降,神経生理学やニューロイメージングの方法論を用いて,意識(主観的体験)の成立に寄与する神経活動や原理などを特定しようとする試みが活発となった。意識(主観的体験)の科学が採用した方法論である「意識の神経相関(Neural correlates of consciousness: NCC)」は,脳画像研究の手法としては極めて強力であったが,意識(主観的体験)を構成する特定の内容に対応する脳構造が脳内に存在するという表象主義的な立場を色濃く残している点で当初から限界を孕んでいた。現代の神経科学は,意識(主観的体験)の基盤となる基質を,特定の神経細胞群や神経回路のレベルではなく,脳内で過渡的に生起し続けるダイナミクスのレベルに求めるべきであるという考えが主流となっており,意識(主観的体験)の生成に関連する神経活動として,脳内の広域にわたって生じる同期発火現象などが候補として挙げられている。しかしながら,なぜこうした神経活動から意識(主観的体験)が生成するのかは未だ不明のままである。近年,ニューロイメージングや神経生理学的手法を補完あるいは,その限界を乗り越えるためのアプローチとして,数理モデルを用いたシミュレーションや人工的なネットワーク内で意識(主観的体験)そのものを生成しようとする試みが本格的に開始されている。こうした新たな手法において,意識(主観的体験)に関する現象学的な知識は,データの解釈や数理モデルの構築における拘束条件として振る舞い,現象学の重要性はむしろ過去よりも高まっていると言える。本稿では,意識(主観的体験)の神経科学がこれまでに明らかにしてきたこと,そしてどのような方向性で研究が進んでいるのかについて概説する。(キーワード:意識,主観的体験,意識の神経相関,ニューロイメージング,神経現象学)

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精神科の病気に本質はあるのか:精神医学はいかなる実践のために疾患を分類するのか(植野仙経,村井俊哉)
抄録:「精神科の病気に本質はあるのか」と問われることがある。ある種別の本質という言葉は,何かをその種別に分類するための必要十分条件という意味と,その種別のあり方を定める原因という意味に解釈できる。前者は唯名的本質,後者は実在的本質に相当する。自然種に関する本質主義,すなわち水や鳥などの自然にある種別はその種別の実在的本質によって規定されるという見方によれば,「精神科の病気に本質はあるのか」という問いは「精神科の病気は自然種か」という問いであり,その問いは科学としての精神医学の身分に関わる。生物学の哲学における種別に関する多元主義と,それにもとづくレイチェル・クーパーの見解によれば,精神科の病気は本質がなくても科学における種別でありうる。科学としての精神医学にとって重要なのは,実践がなされる文脈や目的,人々の関心に応じて理論的に重要な点をふまえておくことである。いかなる点を理論的に重要とみなすかは人々の関心や目的によって異なり,それに応じて精神疾患の分類には複数のものが成立しうる。そして,その想定や分類の妥当性は,実践上の帰結によって合理的に評価される。(キーワード:本質主義,多元主義,自然種,科学における種別,分類)

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発達心理学と精神医学:乳幼児の精神発達理論と最近の神経科学の進歩は精神医学を変えるのか(神尾陽子)
抄録:多くの精神疾患は初発を遡れば児童期に至ることがわかり,今日の精神医学診断体系では発達的観点が強調されている。とりわけ児童期に始まる精神病理では発達心理学と精神医学が協働して行動レベルの指標の同定,そして神経科学との統合によって脳の非定型的発達との関連づけがすすむことで,病態形成や回復のメカニズムの解明や治療法開発につながることが期待される。本稿では,発達心理学,神経科学,精神医学などの領域架橋が成功した事例として,自閉スペクトラム症を取り上げ,研究飛躍のターニングポイントとなった発達心理学的仮説(心の理論仮説)を検証する。他方,アタッチメントの病理は人の生涯のメンタルヘルスに影響を及ぼす重要な精神医学のテーマであるが,発達心理学と精神医学がともに愛着理論から出発しながらも別々の研究アプローチを辿ってきた結果,いまだ概念や用語にコンセンサスが得られておらず,多くの課題が残されている。最近,アタッチメント障害研究において新しいアプローチによる新知見が報告されはじめており,研究結果の一般化や反証可能性の点で今後の進展に期待が持てる。近い将来,これらの人生最早期に始まる精神病理の難問が,領域架橋的な研究の融合によってブレークスルーがすすみ,環境と遺伝の相互作用が行動や脳の発達に与える影響が明らかにされれば,精神医学的治療だけでなく予防医学的な観点からの社会への提案につながることが期待される。(キーワード:精神医学,発達心理学,神経科学,自閉スペクトラム症,アタッチメント障害)

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心理学と精神医学:今後の精神医学において心理学や精神分析が果たす役割は何か(池田暁史)
抄録:本稿で私は,本邦における精神分析の現状について概略を提示したうえで,精神分析が精神医学に寄与しうることを以下の3つの観点から論じた。①精神医学が概念的枠組みとして依拠するのは自然科学的な経験論であるが,個別の臨床においては経験論から零れ落ちてしまう状況が出てくる可能性を指摘し,その矛盾を乗り越える方法の必要性を論じた。そして,そうした方法論の1つとして,経験を出発点としつつもそこを超えた先験的な認識の獲得を目指す生成論のもつ意義について検討した。②次に経験論以外の方法論を採用することで,診断や治療にどのような変化が生じうるのかについて,エヴィデンスと関係性に着目して論じた。③精神分析が精神医学教育に貢献できる可能性について,治療者―患者関係の理解を深め,効果的な介入を可能にするという観点から説明した。そして,そうした観点からの効果が期待できる教育法として,東京大学医学部精神神経科が2014年より実施しているTPAR(Training in Psychotherapeutic Approaches for Residents)の仕組みを紹介した。(キーワード:エヴィデンス,関係性,精神医学,精神分析,生成論,精神医学教育)

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エビデンスの政治学:科学の知と当事者の知の架橋に向けて(狩野祐人,北中淳子)
抄録:近年の精神医学においてはビッグデータ時代を背景に,実験室で生み出される科学知と日々の実践で経験される臨床知との乖離が拡がる一方で,当事者運動の台頭とともに当事者の知が科学知に対して持つ固有性も改めて注目を集めている。それゆえ臨床知及び当事者の知をどのようにエビデンス化することが可能かという問題が前景化されると同時に,そもそも何が科学的エビデンスであり,誰がそれを生産する権利を持つのかという「エビデンスの政治学」が問われている。 本論では,英語圏における当事者主導研究と自閉症者を中心としたニューロダイバーシティ運動の台頭に着目し,専門家・当事者・当事者家族といったアクターが,緊張関係と共に緩やかな連携を保ちつつ,異なるデータや解釈枠組みを前提として科学知を産出する様式について論じる。その際特に,当事者が専門家のエビデンスや概念に依存するのと並行して,精神医学の専門知が当事者や当事者家族が提供するデータやエビデンスから影響を受けてその内実を変化させる相互作用のダイナミズムを医療人類学的視点から考察する。(キーワード:エビデンス,当事者研究,自閉症,ニューロダイバーシティ,医療人類学)

[2020.04.15 updated]