(1999年2月6日)

 

医学的観点からみた精神分析の意義

  フランツ・アレキサンダー

 

 患者とは、心配、恐柿、希望、絶望などに満ち満ちた人間であり、単に病んだ肝臓や胃というような臓器の運搬人ではなく、分かちがたい統一体としての存在である。このような患者像が医学の究極の興味の対象となりつつあることを、今一度ここで強調しておこう。この20年というもの、情動性要因の病因的役割はずいぶん注目されてきた。そして心理的なものに目をむける態度がますます医者の間に浸透してきているといえよう。しかし一部の堅実で保守的な臨床家らは、この流れを長年にわたり蓄積された医学の基礎を脅かすものとみなしたり、また権威者らは、この新しい「心理主義」は自然科学としての医学とはそぐわないものと同業者に警告している。彼らはむしろ医学心理学というものを、医術、または患者と接する上でのこつとか直観的な洞察カなど、物理学、化学、解剖学、生理学のみに裏づけられた科学的治療とは、はっきりと異なったものにとどめておきたいようである。

 しかし歴史的観点にたてば、この心理学的興味というのは、かつての前科学的な視点が、新たに科学的形態をとって再現されたものに他ならないのである。今まで、病める人の世話は必ずしも牧師や医者に分担されていたのではない。かつて、精神的にも身体的にも癒す仕事は一手にまかされていたことがあった。確かに、祈祷師、福音伝導者、ルルドの聖水などの治癒力の説明はいろいろではあるが、これらのものが、しばしば病人に驚くべきほどに治癒的効果を上げたことはまぎれもない事実である。そしてそれらが、化学成分が分析され、厳密に薬理的効果が知られている他の多くの薬より、時に劇的に効いたこともあったであろう。このような医学における心理学的観点は、医術とかベッドサイドでの患者との接し方というような未発達な形でのみ存在しており、科学的な治療からは慎重に切りはなされてきた。そして、主に医者が患者に、支持的、保証的な影響を与えるものとしてとらえられてきたようである。

 近代的医学心理学においては、その医術、すなわち患者に及ぽす医者の心理的効果というものに科学的基礎づけをし、それを治療に不可欠な要素として位置づけることが試みられる。さて、現代の実地医家でもあるいは祈祷師や牧師でも、「治療」業に携わる人々の成功の多くは、治療者−患者間の漠然とした感情的な親近関係によるものがあることは誰もが認めるところであろう。ところが、この医者による心理的作用は、前世紀においてはおおかた顧みられなかった。そして、医学は生体に物理学と化学の法則を応用し、それを基礎に純粋な自然科学へと発展していった。

 近代医学の基本的思想によれば、身体とその機能の解明は、生体が物理化学的な機械であるとする物理化学的観点よりなされるもので、理想的な医者とは身体の技術者となることであるとされた。したがって、この心理的な作用を認識するという、生命と疾病の問題に対する心理学的アプローチは、病気とは悪魔の仕業で、治療とはすなわち悪霊を病気の身体より追い払う悪魔払いであると考えられていた、無知の暗黒時代への逆戻りであるとみなされた。実験に基礎を置く新しい医学が、新たに獲得した科学的栄光を、心理学のような、古臭くて神秘主義的な概念から執拗に保護したのはごく当然のことであった。自然科学に新たに仲間入りした医学は、いわゆる新参者に典型的なふるまいの例にもれず、その卑しい身上を他人に忘れさせたいと欲し、他の純粋な貴族層より独断的で、排他的で、保守的になった。医学は、霊的な、神秘主義的な過去を思いださせるすべてのものに排他的になった。一方その頃、医学の兄貴分でもあり、自然科学の至上の貴族である物理学は、基礎的概念の最も本質的な見直しを行なっており、科学の合言葉でさえある決定論の一般的有効性まで問い直していたのである。

 これらの記述は、医学史上最も輝かしい発展である、実験室内でなされた業績を過少評価するものではない。

 近代細菌学、外科学、薬理学などに例証されているように、詳細にわたる厳密な研究を特徴とする物理化学的態度は、医学に偉大な進歩をもたらした。しかし、歴史上の発展を概観してみて一つのパラドックスと思えることは、ある方法論や原理が、科学的にメリットが大きければ大きいほど、それだけその後の発展を遅らせる影響が大きいということである。

 人の惰性とするところは、もはやその有用性が転換期を迎えているものでも、かつて価値のあった概念や方法論に固執することである。これらの例は、物理学のような、まさに科学というものの発展のなかにも多く見出される。例えば、アインシュタインは、アリストテレスの運動の概念は力学の発展を2000年もの間遅らせたと主張した。あらゆる分野において、発展が得られるためには、新しい原理の導入によって再方向づけされることが必要である。これらの新しい原理は、本質的には以前の原理と相反するものではないのだが、しばしば拒絶されるか、あるいは認められるまでに多大な苦難があるものである。

 この点では、科学者というのは一般人と同様なんと狭量であることか。物理化学的志向は、医学に最も偉大な業績を授けたものだが、同時にその偏狭さゆえに、医学の更なる発展の障害にもなっているのである。医学の実験室時代の特徴は、その分析的な態度である。この時期においては、詳細な機構、部分の過程を理解することが特別な関心事であった。特に顕微鏡に代表される微小な物体の観察手法が開発されるに至り、身体の微小部位にかつてない展望が開け、新たな小宇宙が見出されたのである。そこで、病因研究の主眼は病的過程の局在を求めることとなった。古代の医学では、体液説が主流で、身体の液体成分が病気を運ぶと考えられた。ルネッサンスの時代を経て次第に剖検の技術が発達し、人体の詳細にわたる厳密な研究が可能になると、より現実的で局在的な病因論の概念が導かれた。モルガニーは18世紀中頃に、疾病の発生地は心、腎、肝など特定の器官であると主張した。顕微鏡の導入によって疾病の局在は更に限定された。すなわち、細胞が疾病の病巣とされたのである。ウィルヒョーには病理学は多大に負うとこ ろがあるのだが、彼は、全身病などというものはない、あるのは臓器と細胞の疾病だけであると主張した。彼の病理学での偉業と権威をもってして、今日まで医学的思考に影響を与えた細胞病理学における定説が確立されたのである。ウィルヒョーが与えた病因的思考に対する影響は、過去の偉大な業績がその後の更なる発展の最大の障害になるという、歴史のパラドックスの代表的な例であろう。そのような流れの中で、疾患臓器の組織学的変化を、顕微鏡や洗練された組織染色技術によって観察することを通して、その後の病因論的思考法が決定されていった。そして疾病の原因研究は、長く局所組織の形態的変化を追求することにのみ費やされていた。

 しかし、そのような局所の解剖学的変化自体は、より全般的な障害でも引き起こされうることで、体調の不調や過剰なストレスあるいは情動性要因によってさえも生じうるという概念は、はるか後まで見出されなかったのである。さほど主流ではなかった体液説は、ウィルヒョーが、最後の体液説派であったロキタンスキーを論破してからはあまり取り上げられなくなった。そして、近代内分泌学の姿で再現するまで身を潜めることとなった。

 この時期における医学の発展の本質は、門外漢ではあるが、シュテファン・ツヴァイクが最もよく理解しているようである。『精神による治療』という本の中で、彼はこう述べている。

 「病気とは、今や一人の人間全体に起きたことではなく、その人の臓器に起きたことを意味するようになった。そして、本来基本的な医者の使命であった、個全体として病いをみるというアプローチは、病変がどこにあり、それがどんなものであるか同定し、それを既に分類された病気群のどこかに割り当てるという、より簡単な仕事へと変わってしまったのである。……このような治療の客観化と専門化は避けがたいものであり、19世紀に入ってそれらは更に助長された。なぜなら、医者と患者の間に、医療装置という全く機械的な第三者が介入してきたからである。鋭い、独創的な、総合的な医者の天性とでも言うべき直観は、ますます診断には必要とされなくなってきたのである」。

 

 人道主義者であるアラン・グレグもまた広い視野より医学の過去と将来を概観し、印象的な見解を述べている。

 「人間の人間たるゆえんである全体性というものが、研究のために部分と系に分けられていった。その方法論自体は非難されうるものではないが、その結果のみに甘んじているべきでもないはずである。一体何で、われわれのいくつかの臓器と無数の機能が、調和と統制を保ちつつ維持されているのか? そして、何で医学はこうもたやすく≪心≫を≪体≫より分けることができるのか? いったい個体とは、言葉上は、分かちえないという意味だが、何によって作られているのか? もっともっと知識が必要だということは明らかである。しかし、必要性もさることながら、既に変化の兆しは現われている。精神医学はいまや盛んで、神経生理学は発達の途上にある。脳神経外科学は既に繁栄し、そして内分泌学の萌芽の中にスターは潜んでいる。……他の分野の参加も期待できる。例えば化学、物理学、内科学と同様に、心理学、文化人類学、社会学、哲学などなど。そしてそれらが、デカルトによってわれわれに残された心身二元論の解決へと貢献するのである」。

 このようにして、近代医学では疾病は二つの異質なグループに分けられた。

 その最初のグループは、より進歩した科学的なものとみなされ、例えば器質的心疾患、糖尿病、感染症など、すべての障害は生理学と一般病理学で説明しうるものである。そしてもう一方は、より非科学的で、漠然として、しばしば精神的原因といわれる疾病群の雑多な集合である。そして、このような二元的な態度をとったため、人間の心の惰性の結果としてよくあることだが、より多くの病気が感染という病因論的枠組に安易に当てはめられてしまった感がある。なぜならそこでは病因的原因と病理的結果が、互いに比較的単純な関係で説明可能だからである。感染論的に、あるいは他の器質病変の存在などで病気を説明できなくなると、現代の医者はいとも簡単にこんな希望をもって自分を慰めてしまう。つまり、将来いつの日か、より詳細な器質的過程が知られた時、現在心ならずも認めている精神的要因というものが最終的にはなくなるであろうと……。

 しかし次第に、広い視野をもった臨床家らは、たとえ生理学的によく理解された障害、例えば糖尿病や本態性高血圧にしても、一連の病因の最後の一部分のみが解明されただけで、その根本的な病因はいぜんとして不明のままであるのだということを認識し始めた。その際、他の慢性狭患と同様に、多くの臨床上の知見では「中枢性」要因ということが指摘された。しかしその「中枢性」というのは明らかに「心因性」ということの婉曲的表現であるように思われてならない。こう説明してくると、医者が参察する際にとる形式的な理論的嬢度と、実際にとる環実的態度の間に、独特な矛盾が生ずるのが容易に分かるであろう。

 医者は、科学に対する貢献と、医学界に対する面子から、病名に潜む生理学的かつ病理学的な過程をより詳しく知ることの必要性を強調し、心因性というものを本当に信じようとはしない。しかしながら彼の個人的な診療では、躊躇なく本態性高血圧の患者にはこう助言するであろう。「もっとリラックスしなさい。人生そう深く考えるな。働き過ぎるな」と。そして高血圧の本当の原因は、その患者の日常生活上での過剰な活動と、強い野心的態度であると説得するであろう。この現代医師の「二重人格」こそが、まさに現代医学の弱点をあらわにしている。

 医学界において実地医家は、安易に「科学的」態度をとるのであるが、それは、本質的には単に独善的な反心理学的態度に他ならない。この精神的要素がどう本当に作用するのか知らないし、これは今まで医学教育を学んできたことすべてにあまりにも矛盾することでもあるし、また、この精神的要因を認めるということは生命の物理化学的理論の統一性を破ることにもなりかねないし……と、このように考える実地医家は、極力この精神的要因を無視しようとする。しかし、医学者としては、その精神的要因をすべては捨て切れないのである。

 患者と相対した時、彼の治療的良心ゆえに、この嫌な要因 − もっともその重要性に関しては直観的に感じていたのだが − に、最初の注意が向いてしまう。彼は、その精神的要因に対処しなければならないのであるが、そうしながらいつも、医療は科学だけではなくて医術でもあるという慣用句で、自らに言い訳をしている。彼は、いわゆる医術というものが、深遠な、直観的な、つまり言語化されていない知識であり、彼の長年にわたる臨床経験より得られたものであるということに気づいていない。医学の発展における精神医学の、特に精神分析法の意義は、疾病における心理的要因を研究する上で、まさに有力な技法を導入したということにあるのである。

 

アレキサンダー『心身医学』より)

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