報復の連鎖
権力の解釈学と他者理解

書評・評論など

表紙がとても恰好良い、タイトルが見事 (瀧本往人さまのブログより)

ひとこと感想

原題にはないが邦訳のサブタイトルに含まれる「他者理解」というものが、私たちの現実社会で起こりうる「報復の連鎖」から解き放たれるために重要になってくる。ラカンの影響を強く受けていることと、フロイト、ハイデガー、カント、ヘーゲルの読み方が私と似ており、かつ、問題意識が重なっているせいか、とても共感できた。

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まさしく「世界」はいま、「報復」や「分裂」「対立」「闘争」のただなかにある。
それは、言い換えれば「他者理解」の困難さ、ということになる。
私たちは日常的に、気づかないうちに「自分」とその「仲間」を肯定的にとらえる一方で、「他者」をその枠内から排除している。
またそれは、「排除」されたくなかったら自分(たち)の了解世界を受け入れよ、という無言の圧力をかけている。

私の苦手なフレーズは「男だったら涙を見せるな」というような「性」絡みのものである。
私はこうした「男」のカテゴリーを自分に強いられることに長年のあいだ苦痛を感じ続けてきた。
いや、そればかりではない。「日本人だったら~だ」とか「北海道出身だったら~だ」というのも、言葉の「暴力」だということに気づいている人はどれだけいることだろう。
私にはできないが、大半の人は、そういう場合、じっと耐えて、受け入れて、相手に合わせているだけなのだ。
そうすると発言者は相手が自分の価値観を受け入れていると錯覚し、さらにその価値観を強固なものと理解する。
「権力」とはそういうものなのである。

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他者を「理解」すること。
ヘーゲルやフロイト、ラカン、マルクス、デリダ、レヴィナス、誰でもいいのだが、彼らにとって「他者」とは「私」のことである。
もしくは、「私」というものは「他者」から成り立っている、ということである。
それゆえ「他者」を「理解」するということは、「私」を「理解」することでもある。
すなわち「他者」と「私」とは分かちがたいものであり、あえてこれを分けるということは、ある種の「病」がそこには発生している。

一方、「他者」を「理解」することにも、いくつかの類型(もしくは段階)がある。
1 他者の立場に身を置き、感情移入によって他なるものに近づく
2 他なるものをそのまま他なるものとして理解する
3 他者と自分との共通性を抽出する

このプロセスのうちのどこかで人は「理解することから撤退して権力に心を集中」(ixページ)させてしまう傾向があり、その場合、「復讐」と「報復」の連鎖に陥る。
そうではなく、「他者」に「私」を開き、自由と交わりを追求することに「希望」がある。
これが本書で語られる「報復の連鎖」を断ち切るすべ、である。

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だが、たとえばハイデガーの他者理解はどうか。
現存在という言葉(ドイツ語の場合は、「そこに-ある」)で人間を語るハイデガーだが、
この現存在は基本的に他者と向き合っていない。
もちろん「共存在」(ミットザイン)という言葉をハイデガーは使って形式的には他者との関係にふれてはいるがそれは申し訳程度である。
「ハイデガーの理解概念の展開では、何よりも人間の文化的対象とのつきあいが優先され、
人間が人間と交わることに重きがおかれていない。」(26ページ)
そしてこれはガダマーにより顕著に表れているが、解釈学は、「書かれたもの」を解釈することに没頭するあまり、目の前の他者の「語り」に耳を傾けることを忘れる。
「対話の相手やその生の語りは二次的な段階で初めてテクストの位置に就く。」(32ページ)
要するに他者とのやりとりではなく、「私」というものが「他者」に問いかけること、「応答することより問いかけることの方に事実上の優位性が認められる」(33ページ)のである。
そしてさらに、この「他者」は過去に遡及することはできても、未来にまなざしを向けることができない。
なぜならば、解釈学の対象は過去、とりわけ古典的な著作が中心となっているからである。
こうした解釈学の特性が他者理解に何をもたらしているかというと、自分が共感できるもの、自分が親しみを感じるものだけを「他者」として認め、それ以外のものは受け入られなくなるのである。

これに対してシェップはここでG・H・ミードの他者理解を、対置させる。
それは、自分を/他者(の立場)へ/置き換える、というとらえ方である。
つまり他者を私たちが理解しようとする際には、必ず、まず、「自分」を基準とする。
そしてその「自分」と比べてよくわからない「他者」のことを考えるわけだが、もし自分がその人だったら、と仮定して、どうするのか、どう考えるのか、といった「置き換え」の発想で理解しようとする。

いわゆる「感情移入」である。そして「自己」が「他者」と結び合う可能性、それは結局「言葉」というものに依存している。
「言葉」というのは、単に、同じ言語を話すことで意味や意思が伝わる、という意味ではなく、双方のコミュニケーションの共有項というようなもののことである。
しかし現実は簡単ではない。相手のことを考えるにしても、結局は自分のわかる範囲でしか理解できない。つまり永遠に他者のことは理解できない。
本当はこの「理解できない」ということを「理解」することが、他者理解にとって重要である。
「すべての理解にはまた理解できないということの是認が必ず伴っている」(85ページ)
ここにはラカンやデリダが参照されている。
ラカンであればこうした「理解できない」ことは「言語」を通じて(要するに大文字の他者である「象徴秩序」によって)何らかの和解をさせる。
一方デリダであれば、そのまま脱構築し差異や矛盾を開示するかもしれない。
ただしデリダのように「差異」もしくは「理解不可能性」を強調してしまうのも、ある種の「行き過ぎ」がある、とシェップは考える。
すなわち解釈学者と反解釈学者の中間にこそ、「真実」が置かれるべきだとするのである。
だとしてもまだ、問題は残されている。というのも、この中間においても二つの道があり、いずれにも欠点があるからである。
第一の道は、合理性や理性を共有項とするもの、第二の道は、信仰をもとに結びつくというものである。
特に前者においてはロールズの正義論における「無知のベール」や「原初状態」を参照している。
また後半では具体的に、性差、経済、政治といった三つの具体的な現実における理解の諸相を分析している(本書の後半はこれらに費やされている)。

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私が本書を読んで痛切に感じるのは、私たちが今、以下のような現在的課題をめぐる厳しい対立のただなかで生きているということである。
・原発推進派と反対派
 (もしくは被曝寛容派と慎重派)
・安保改正支持派と反対派
・地域猫推進派とアンチ地域猫派
ほかにももっと数多くの「報復」的関係性が現れている。
大事なのは、いずれかの立場に自分がいるのかでも、ジブが支持する立場が敵対する立場を圧倒することでもない。
そしてもちろん、この両者に「和解」や他者への「共感」は極めて困難どころか、おそらく不可能であることが最初から予想される。
だがそれでもなお、何とかして、両者のあいだをつなぎうる言葉や考え方、議論の仕方、共存の仕方が生まれなければならないのではないだろうか。
とりわけ政治の世界では、むしろ「報復の連鎖」こそが自分の陣営を有利にするものだ、と思われている。
だが、違うのだ。
この点については、ぜひとも実際に本書を読んでみることをお勧めしたい。

 私と存在との対話・「報復の連鎖」(A、シェップ著)を読んで!

2016-02-28 19:33:42 | コラム

私と存在との対話

「報復の連鎖 A,シュエップ」(斉藤博+岩脇リーベル豊美訳・学樹書院)を読んで!

なお、著者のシェップ氏はドイツの哲学者であり、精神分析開業医でもある。
シリヤの内線が示すように、報復の連鎖が続いている。やっと停戦のメドもついたようだが、
はたしてうまく行くかは不透明だ。私が目に止まったのはこの理由だけではない。
国内における政治の動向、はてはTVや新聞でいつも報道される殺傷事件など、国内の報復の連鎖も続いている。

そんなわけで、手にしたのであるが、翻訳書のもっている独特の文章表現、哲学者特有の表現などもあって、苦労した。
それで、いつもの読書ノートのようにはいかないので、ざっと目を通したあと、私なりの考えをまとめてみた。
題して、「私と存在との対話」である。
自然を探索する、知り合いと対話する、絵画を観衆する、音楽を聴くなどの行為の中で、私達はお互いに言葉に命を吹き込み、コトバとなって現れる。(コトバとは、個性的な本質を表す言葉をさし、一般概念としての言葉と区別して使うこととする。)

その場合、その間にはいくらかの空間があり、そこから吹いてくる風、暖かい空気、すっきりとした青空、小鳥の鳴き声、人々の笑い声、耳に、体に、頭に、すてきな色づけをする。そんなことを連想する。
たとえば「花」という記号は、そこに「存在する花」との間にあって、交流を深めるなかで、意義を持つ。
『意義は関係が拓く間と間にあって成立する。』(ラカン)という時の「意義」とは、私の考える「存在の意義」のことであろうと思っている。

この本の訳者斎藤は、本書の訳者解題の中で、次のように言っている。

『記号に命を呼び覚ます。意味は記号相互の不可視の関係性といい第三の次元である。
関係の喪失によって、自分への後退によって、関係はたたれる。
よそものと私とのたんなる二項的な対置をラカンは虚構の秩序と呼ぶ。』
つまり、記号としての、言葉としての花は、頭では知っていても、そこに存在する美しい花(コトバとしての花)を見つめない、無視する中で関係はたたれる。そこに咲いている花には目も触れない。そして、おまけに踏んづけて歩く。
この「美しい花」を「すばらしき仲間」「すばらしき人間」「偉大なる地球の仲間たち」などにに置き換えてみるとよい。
自分の文化や言語の自己関係が閉塞し、他者の文化や言語を敵にまわすこととなっているのである。

 それが、報復の連鎖を生むこととなる。

 今世間を騒がしている一連の殺傷事件や、戦争がそうである。

 それを回避するためには、自己表現は存在との心の通い合いによって表現されるものだということを認めなければならない。表現するのではなく、表現されるのだという気持ちが大切だ。
決して、私が私がと表現するものではない。私がここで言う存在とは、自然、社会、人、書物、絵画や音楽などのことである。

斎藤はまた、次のようにも言っている。 

『私か私自身に言及して私はかくかくの者であると言うには、鏡の像によって、いわば他者の目によってしか、他に自分を語る手段はない。
私はすでに他者によって語られる。そうした他者を介しないで私は己を捉えることはできない。
私か捉えている自己はそうした他者である。
そこでは私か理解の射程に捉えている私の主体はその表舞台からは姿を消している。』
画家はすばらしい風景を描く。しかも、その絵を通して自分を表現している。主張しているのは絵である。そこで出会った自然は他者として存在し、作者と共同で絵を造りあげたのである。しかも、その主張は、その作品に招かれた他者を介して理解され共有される。ここで出てくる絵や作品を存在とらえ、その存在の表現をコトバと置き換えるとおわかりいただけると思う。
それは、何も芸術分野だけではない、政治も経済や社会生活、人間関係もである。なにごとも、自己は他者を介して捉えられているということを今一度、自分自身で確かめてみる必要がある。
そういう心を持った時に、今も世界のどこかで繰り広げられている戦争や、暴力行為の連鎖を断ち切ることができるのであろう。
この「(報復の連鎖)」では、従来の自我と他我のかかわり(解釈学)の限界を、ハイデガーやフッサールなどの理論にふれながら展開しているが、専門的になるので、ここでは、取り上げなかった。ただ、著者A、シャップが、次のように言っているところが、強く印象に残ったので紹介する。。
『不信や他者からの後退といった感情からまなざしの狭窄化か生じる。このことは忍び寄る交流の衰退の、また開かれた対話や情報交換の衰退の側面である。同時に独りよがりの知ったかぶりと優越感のパースペクティヴが他者のパースペクティヴの上に覆いかかる。他者のために世界を見ること、望むこと、行動することは、しかし、暗黙のうちに他者の侵害であり、支配であり、そして管理することを意味する。他者に対するまなざしを自己中心的に変化させることは、したがって同時に他者からの退却であり他者を侵害することである。こうしたことは、見ること、感じること、行動することの差異をなくすことであって、そのためにもはや、何か他者を自分から分離し、他者たらしめるのかを区別できなくしてしまうということである。』

翻訳書の持っている独特の雰囲気や、哲学者の言い回しもあって、なんとなくわかりずらいので、私自身の言葉で言うと、こんなことになるのだろうか。
私が私がといい、存在から目を遠ざけるという表現や行動が働けば、そこに空間ができず、対話は情報交流の場がなくなり。独りよがりの知ったかぶりと優越感の自分勝手な展望が、他者に覆いかぶさる。

自分勝手に他者のためだと思いこんで存在(世界)を見て、行動することは、他者に対する侵害のなにものでもない。自己表現は存在(他者)との心の通い合いによって表現されるものだということを認めなければならない。表現するのではなく、表現されるのだという気持ちが必要だ。決して、私が私がと表現するものではない。面倒なことだが、お互いがこうなれば、暴力(報復)の連鎖がなくなるのであろう。

どこかの政治家に言って聞かせたい気もするところである。

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